前回お話しした内容と少し似かよりますが、
今回はコンプレックスと因果応報を関連づけた話です。
何故、人間はコンプレックスを、神に植え付けられるのか?
この事については、今まで、再三述べて来た通りですが、
まだ、言い足りない部分もかなりありますので、その事について、もう少し言及します。
僕の長年の人間観察によれば、人間の人生と言うのは、「因果応報」という、一つの
巨大な標(しるべ)によって構築されていて、
その「因果」の総量に微塵の狂いもありません。
人間の一生は、因果の総量が、まったく等しく、因果の「果」をはらすまでは、
死にたくとも死ぬ事は出来ません。
(必ずしも悪い意味に、と言う訳ではありません。
人生の後半に、いい事がまとまって、やってくる事もあります。)
物理学の「エネルギー保存の法則」と、同じような物なのですが、
悲しいかな、「エネルギー保存の法則」は物理学的に証明されているのに、
「因果応報の法則」の方は、中々証明されづらいため、
「因果応報」などと言うと、まずバカにして、一笑に伏してしまう人が殆どです。
非常に迷信じみていて、昔の単純で教訓的な「勧善懲悪」などをも思い出し、
なにか胡散臭い、この厳しい現実世界の生活から逃避しようとする人たちの
たわごとのようにも聞こえてくるからです。
何故、(我々の住んでいる、この世界を造り上げた魔法使いが)
このような、「因果応報」という法則を設定したのか、その真意については、
僕のような、(神からみれば)ケシ粒にも満たないような人間の知る由もありません。
ただ、一つ考えられる事は、神がこの法則によって、この世界全体の均衡(バランス)を
保っているんじゃないかという事です。
分かりやすい例えで言いますとね、
我々人間の一人一人を、大きなジグゾーパズルの、一片のパーツだと思ってください。
凹凸のある、パズルの一片は、それだけでは意味をなしません。
その一片、一片が他のパーツと結びつきあって、最終的に
大きくて綺麗な一枚の絵に仕上がるのです。
どの、一つの箇所が欠けても、それは不完全で醜い物になってしまうのです。
それで、凹凸によって他のパーツとくっ付いている訳ですが、
それでは、その窪みとか出っ張りというのは、何なのでしょうか?
窪んでいる部分というのは、その人間のマイナス(恵まれない)部分、
出っ張っている部分は、その人間のプラス(恵まれている)部分であると思ってください。
お互いがお互いを、補い合ってくっ付いていると言う訳です。
お金を持っている人が、そうでない人に施しを与える。
能力のある人が、そうでない人を救ってあげる。
性格の恵まれている人が、そうでない人に、喜び、慈しみを与える。
ここで、注意してもらいたいのは、プラス、マイナス、どちらが良いとか悪いとか
言う事より、両方ともなくては、その関係が成り立たない、と言う事です。
そして、これは何も人間にだけあてはまる、という訳ではありません。
椅子や缶コーヒー、海辺の石ころ、チリやホコリのような微細な物まで、
この世に存在する物、全てを含んでいるのです。
缶コーヒー、一つにしても、それが出来上がり、消滅していくまでに、
もう、実際、色々な物や人が関わってくる訳じゃないですか。
製造や販売に関する、人間や機械、いや、それだけではなく、運送のトラックだとか、
お金(コイン)だって動いているのです。
全てがくっ付いて、関連しているのです。
トラックを中心にみれば、また別の物が色々と関連して来ます。
このブログにしてもそうです。書き手である僕の存在もありますし、
パソコンやインターネットがあって、このブログも存在するのです。
そして、もちろん、皆さんが見ていてくれるから、です。(笑)
では、長くなりましたので、この続きはまた次回。
(また、話がそれましたね。すいません。)(笑)